宝くじという商売
2005年11月19日 哲学・宗教・幻想文学
あぁ、なんか最近の更新が週一になってきて、どうしようとかって思い始めました。
調子が別に悪くもないのですが、金曜日と今日に胸がキリキリ痛くなりました。
たびたびこういうことがあるのですが、なんか意外ですね。
あまり思い当たる節がないので……。
さて、今日は家の掃除の時にかか様から「宝くじをわけて」と言われたので、160枚の宝くじを3種類に分けました。
そこでふと思ったことを書いてみたいと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
宝くじとは、多くの人が一攫千金を求めて、当たらないこともあると知りながら買うものです。
宝くじの特賞なんぞ、何万本もあるうちの1本で、確率的に言えば何万分の一の確率なんですよね。
まぁ、前後賞とか、特賞でなくとも高額当選とかありますけど。
そしてある種、一攫千金という夢を求めて買うわけですねぇ。
でもなんだか、私は当たらないのがほとんどだという事実にみんな目をつむって、買っているように思うのですよ。
当たる人間なんて、ほんの一握りで、難関大学の難関な学部に入れる確率より低いかも知れないのに、どうしてこう、こぞって買うのかなぁ……と、思うわけです。
考えてみれば、宝くじを売るという商売は、あくどい商売なのかも知れませんね。
たくさん買わなければ100円も当たらない。……かも知れない。
運だめしという名目を利用した、金の荒稼ぎ……とも言えるだろうか。
別段、宝くじを非難しようとかいうつもりは毛頭ない。
そして現に、売店の人間は狭い箱の中につまって暑い日も寒い日も、そうやって売ってる。
売っている人間がみな、裕福ではないのだ。
私がそこまで考えて思い浮かべるのは、売店で店員をしているある家族のことだ。
縁起が良くなるようにと、機会があるたびに豪華な食事をするのだそうだ。
彼らは終始、宝くじを買う人間の為だと言っていた。
私の目にうつる彼らの食事は、おせちのようだった。
私は思ったものだ。
「あぁ、彼らは宝くじを売っているから、こんないい暮らしが出来るんだ」と。
とても羨ましく思えた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ある家族の話がある。
一家の大黒柱は外に女をつくって遊び呆けていた。
妻はまだ小学校高学年の一人息子を養うために、昼はパートに出て働き、夜は家事におわれていた。
ある時、息子は宝くじの売店の前を通った。
そしてこう思った。
「もし神様がいるなら、宝くじを当ててくれて、僕らの暮らしを変えてくれるかも知れない」
息子は少ない小遣いで、一枚の宝くじを買った。
――そして、運命の日は来た。
息子が売店に行って宝くじが当たっているかどうかを確かめると、
宝くじは、
5000万円という高額当選だった。
息子は喜び勇んで、母親にそのことを言った。
二人は押し入れの棚の中に、高額当選をした宝くじを大事にしまった。
もちろん、このことは二人だけの秘密だった。
「これで暮らしは変わる」
二人は確信していた。
――ある日、当選した5000万円を換金しようと、母親が押し入れを開けて棚の中を見てみると、そこには何もなかった。
母親は息子が持っているかも知れないと思い、息子に訊いた。
だが、息子はあの日以来、押し入れは開けていないという。
まさか。
二人には、ある一つの嫌な予感がした。
実は夫が宝くじの話を聞いていて、持ち逃げをしたのではないか、と。
不幸にも、二人の予感は当たった。
こっそり盗み聞きしていた夫は、二人が押し入れに宝くじをしまったのを見ると、それを持ち出して、愛人と一緒に逃げたのだった。
行方などつかめるはずもなく、二人は途方に暮れた。
そうして、家庭は崩壊し、一枚の宝くじは、二人を幸せにはしなかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私は宝くじが好きでも嫌いでもない。
ただ、仕分けをしていた宝くじの、輝かしい未来を描いたような絵を見ていて、
“宝くじは一体どれだけの人を幸せにして、一体どれだけの人を不幸にしただろうか?”
と、ふと思った。
出かけた先で160枚の宝くじを換金した。
2万円にもならない、割の合わない夢をみた。
手をこまねく招き猫はどこにでもいる顔をしていて、
「年末の宝くじがもうすぐ発売ですね」という売店の人はどこにでもいる、人の良さそうなおばさんで、
後ろに並んでいたベビーカーを押す女性は不幸ではなさそうで、
ラジカセから流れる間の抜けた販売用の音楽は止まることなく流れ続けて、
皆人、一体どれだけ、このことに気づいているのか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私の目にうつる人々は、時々いろいろ言うが、本当に不幸だろうか?
基準は人それぞれだから私は何も言わないが、時々そう思う。
調子が別に悪くもないのですが、金曜日と今日に胸がキリキリ痛くなりました。
たびたびこういうことがあるのですが、なんか意外ですね。
あまり思い当たる節がないので……。
さて、今日は家の掃除の時にかか様から「宝くじをわけて」と言われたので、160枚の宝くじを3種類に分けました。
そこでふと思ったことを書いてみたいと思います。
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宝くじとは、多くの人が一攫千金を求めて、当たらないこともあると知りながら買うものです。
宝くじの特賞なんぞ、何万本もあるうちの1本で、確率的に言えば何万分の一の確率なんですよね。
まぁ、前後賞とか、特賞でなくとも高額当選とかありますけど。
そしてある種、一攫千金という夢を求めて買うわけですねぇ。
でもなんだか、私は当たらないのがほとんどだという事実にみんな目をつむって、買っているように思うのですよ。
当たる人間なんて、ほんの一握りで、難関大学の難関な学部に入れる確率より低いかも知れないのに、どうしてこう、こぞって買うのかなぁ……と、思うわけです。
考えてみれば、宝くじを売るという商売は、あくどい商売なのかも知れませんね。
たくさん買わなければ100円も当たらない。……かも知れない。
運だめしという名目を利用した、金の荒稼ぎ……とも言えるだろうか。
別段、宝くじを非難しようとかいうつもりは毛頭ない。
そして現に、売店の人間は狭い箱の中につまって暑い日も寒い日も、そうやって売ってる。
売っている人間がみな、裕福ではないのだ。
私がそこまで考えて思い浮かべるのは、売店で店員をしているある家族のことだ。
縁起が良くなるようにと、機会があるたびに豪華な食事をするのだそうだ。
彼らは終始、宝くじを買う人間の為だと言っていた。
私の目にうつる彼らの食事は、おせちのようだった。
私は思ったものだ。
「あぁ、彼らは宝くじを売っているから、こんないい暮らしが出来るんだ」と。
とても羨ましく思えた。
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ある家族の話がある。
一家の大黒柱は外に女をつくって遊び呆けていた。
妻はまだ小学校高学年の一人息子を養うために、昼はパートに出て働き、夜は家事におわれていた。
ある時、息子は宝くじの売店の前を通った。
そしてこう思った。
「もし神様がいるなら、宝くじを当ててくれて、僕らの暮らしを変えてくれるかも知れない」
息子は少ない小遣いで、一枚の宝くじを買った。
――そして、運命の日は来た。
息子が売店に行って宝くじが当たっているかどうかを確かめると、
宝くじは、
5000万円という高額当選だった。
息子は喜び勇んで、母親にそのことを言った。
二人は押し入れの棚の中に、高額当選をした宝くじを大事にしまった。
もちろん、このことは二人だけの秘密だった。
「これで暮らしは変わる」
二人は確信していた。
――ある日、当選した5000万円を換金しようと、母親が押し入れを開けて棚の中を見てみると、そこには何もなかった。
母親は息子が持っているかも知れないと思い、息子に訊いた。
だが、息子はあの日以来、押し入れは開けていないという。
まさか。
二人には、ある一つの嫌な予感がした。
実は夫が宝くじの話を聞いていて、持ち逃げをしたのではないか、と。
不幸にも、二人の予感は当たった。
こっそり盗み聞きしていた夫は、二人が押し入れに宝くじをしまったのを見ると、それを持ち出して、愛人と一緒に逃げたのだった。
行方などつかめるはずもなく、二人は途方に暮れた。
そうして、家庭は崩壊し、一枚の宝くじは、二人を幸せにはしなかった。
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私は宝くじが好きでも嫌いでもない。
ただ、仕分けをしていた宝くじの、輝かしい未来を描いたような絵を見ていて、
“宝くじは一体どれだけの人を幸せにして、一体どれだけの人を不幸にしただろうか?”
と、ふと思った。
出かけた先で160枚の宝くじを換金した。
2万円にもならない、割の合わない夢をみた。
手をこまねく招き猫はどこにでもいる顔をしていて、
「年末の宝くじがもうすぐ発売ですね」という売店の人はどこにでもいる、人の良さそうなおばさんで、
後ろに並んでいたベビーカーを押す女性は不幸ではなさそうで、
ラジカセから流れる間の抜けた販売用の音楽は止まることなく流れ続けて、
皆人、一体どれだけ、このことに気づいているのか。
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私の目にうつる人々は、時々いろいろ言うが、本当に不幸だろうか?
基準は人それぞれだから私は何も言わないが、時々そう思う。
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