私の幸せってなんだろう?
2005年7月10日 哲学・宗教・幻想文学なんか、タイトルからして人生に行き詰まった感を拭えませんね……。
どうもこんにちは。緋のです。
唐突ですが、独り言に専念させて下さい(つД`)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
あぁー、自分ってなんて情けないんだろうかと、つくづく思う。
はにかんで終われるような情けなさじゃなくて、人の深い所に住み着いて蝕んでいくような、冷たい情けなさ。同時に、何も出来ない自分に対する不甲斐なさを痛感させられる。
そうだ、どんな場面でも、私はこの二つを痛感させられてきたなぁ…と思う。
そして“それら”は、私から自信を奪って、虚栄心で出来たやたら頑強なプライドを創りあげた。
そのプライドは、社会生活…いや――集団生活――の中に入っていくと、いつも邪魔ばかりをしていた。今も…そうだ。
よく、「プライドは低すぎても、高すぎても駄目だ」と人は言うが、私はこんなプライド(自尊心)は無くていいと思う。
だって『プライド×(自分の情けなさ+不甲斐なさ)→自己嫌悪』につながっていくんだもの。
断片的で静止画程度でしかない私の記憶の中には、いつでも完全主義者でいる自分と妥協点で諦めた私がいるわ。
そしてその記憶の続きは大抵――やりきれなくて、完全に燃え尽きなかった自分への自嘲につながっている。
一体いつからこうなってしまったのだろうかと、幾度となく自問自答してみたが、答えが出た試しなど、一度もない。
幼少の記憶……一番古いのは、3、4歳の頃のものだ。
一人で何かの人形を抱えて、保育園の黒板にもたれいる場面だ。俯いたまま、柔らかいピンクベージュの床が、涙でぼやけたように目に映っているのが記憶の一部。泣いているわけではなくて、たた単純に、記憶が曖昧だからそうなっているだけなのだ。
その次の記憶は、私が小さい教室の遠い所で遊んでいる子供達を、遠巻きにして眺めている場面だ。
……その時に私が何を考えていたかは分からない。分かることは、ただ一つ。
身を凍えさせるような黒くて冷たい感情が、私の中にあったという………。
ただ、それだけだ。
なんて皮肉だろうね?
私の最初の感情を持った記憶が、『孤独の記憶』だなんて。まるで、私は孤独と共に生きてきたということを、(ひょっとしたら、私は孤独から生まれ共に生きてきたということを)証明しているようなものじゃないか。
だが…私は常に孤独と共に生きてきた訳ではない。けれど、やはり私は孤独と共に生きてきている。
やがて孤独は人格を形成し……私の片割れとなった。感情を持ち、容姿までも創りあげ、負の感情をどんどん飲み込んでいった。
彼女は。
彼女は、私だ。私でもあり…、また私とは違う人物だ。
彼女は完全主義者で、妥協することを知らない。そして、自分の意志を貫き、傷つくことを恐れず、間違った道を進んだことはない。
しかし彼女は、表舞台に生涯立つことはないのだ。
私と彼女は表裏一体。
私が表舞台に立ち、彼女は私の背後についている。
彼女は助言もするが、私をあざ笑うこともある。
だが…それも当然だろう。
私は、完全主義者にも関わらず、妥協点を見つけてはそこに安住する。そして意志を持ちながら他者の意志の流れの中に身を置き、逆らうことは決してしない。
私は傷つくことを恐れ、間違った道を進みもし、無い物ねだりをし続けている。
彼女と私は共にある。いいや、彼女が居てこその私なのだ。だから、私は苦悩する。
……私の幸せとはなんだろうか、と。
私は何をしても中途半端で、完全に燃え尽きた試しなど一度もない。
一度くらい燃え尽きたのなら、何かを得ることも可能だったのかも知れない。
いや、ひょっとすると、私の幸せというのはその辺に転がっていて、私がそれに気がついていないだけなのかもしれない。
けれど、私には幸せを見つける“眼”を持ち合わせていない。
私の中にある混沌の中から一つの答えを引き上げるとするなら、『孤独を打ち消し、目に見える幸せを掴むこと』こそが……、今の私の定義だ。
だが、孤独を打ち消せば、私はそこに安住してしまうだろう。
私の中にある混沌は、私にとっての光であり闇だ。
無限の可能性を秘め、私に筆を取らせて「ものをかけ!」とかき立てるのだ。
私は幸せになってしまうと、この混沌を失ってしまうような気がしてならない。
だから、時々思うのだ。
『この混沌を抱え、あるいは、この混沌の中で生きていくことこそが、私の幸いなのではないか……?』と。
私は孤独を振り切ったことがないから、この考えを証明することは出来ない。
そして、孤独を振り切れるとも思っていない。
何故なら、孤独は私の始まりで、孤独は私を辿るルーツだからだ。
あの黒くて身を凍えさせるような冷たい感情が、気持ちが、私の延髄に深く染みこんで抜けそうにないからだ。
それに……。
私も手放そうとは思っていない。
そう思わずには、いられないのだ。
どうもこんにちは。緋のです。
唐突ですが、独り言に専念させて下さい(つД`)
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あぁー、自分ってなんて情けないんだろうかと、つくづく思う。
はにかんで終われるような情けなさじゃなくて、人の深い所に住み着いて蝕んでいくような、冷たい情けなさ。同時に、何も出来ない自分に対する不甲斐なさを痛感させられる。
そうだ、どんな場面でも、私はこの二つを痛感させられてきたなぁ…と思う。
そして“それら”は、私から自信を奪って、虚栄心で出来たやたら頑強なプライドを創りあげた。
そのプライドは、社会生活…いや――集団生活――の中に入っていくと、いつも邪魔ばかりをしていた。今も…そうだ。
よく、「プライドは低すぎても、高すぎても駄目だ」と人は言うが、私はこんなプライド(自尊心)は無くていいと思う。
だって『プライド×(自分の情けなさ+不甲斐なさ)→自己嫌悪』につながっていくんだもの。
断片的で静止画程度でしかない私の記憶の中には、いつでも完全主義者でいる自分と妥協点で諦めた私がいるわ。
そしてその記憶の続きは大抵――やりきれなくて、完全に燃え尽きなかった自分への自嘲につながっている。
一体いつからこうなってしまったのだろうかと、幾度となく自問自答してみたが、答えが出た試しなど、一度もない。
幼少の記憶……一番古いのは、3、4歳の頃のものだ。
一人で何かの人形を抱えて、保育園の黒板にもたれいる場面だ。俯いたまま、柔らかいピンクベージュの床が、涙でぼやけたように目に映っているのが記憶の一部。泣いているわけではなくて、たた単純に、記憶が曖昧だからそうなっているだけなのだ。
その次の記憶は、私が小さい教室の遠い所で遊んでいる子供達を、遠巻きにして眺めている場面だ。
……その時に私が何を考えていたかは分からない。分かることは、ただ一つ。
身を凍えさせるような黒くて冷たい感情が、私の中にあったという………。
ただ、それだけだ。
なんて皮肉だろうね?
私の最初の感情を持った記憶が、『孤独の記憶』だなんて。まるで、私は孤独と共に生きてきたということを、(ひょっとしたら、私は孤独から生まれ共に生きてきたということを)証明しているようなものじゃないか。
だが…私は常に孤独と共に生きてきた訳ではない。けれど、やはり私は孤独と共に生きてきている。
やがて孤独は人格を形成し……私の片割れとなった。感情を持ち、容姿までも創りあげ、負の感情をどんどん飲み込んでいった。
彼女は。
彼女は、私だ。私でもあり…、また私とは違う人物だ。
彼女は完全主義者で、妥協することを知らない。そして、自分の意志を貫き、傷つくことを恐れず、間違った道を進んだことはない。
しかし彼女は、表舞台に生涯立つことはないのだ。
私と彼女は表裏一体。
私が表舞台に立ち、彼女は私の背後についている。
彼女は助言もするが、私をあざ笑うこともある。
だが…それも当然だろう。
私は、完全主義者にも関わらず、妥協点を見つけてはそこに安住する。そして意志を持ちながら他者の意志の流れの中に身を置き、逆らうことは決してしない。
私は傷つくことを恐れ、間違った道を進みもし、無い物ねだりをし続けている。
彼女と私は共にある。いいや、彼女が居てこその私なのだ。だから、私は苦悩する。
……私の幸せとはなんだろうか、と。
私は何をしても中途半端で、完全に燃え尽きた試しなど一度もない。
一度くらい燃え尽きたのなら、何かを得ることも可能だったのかも知れない。
いや、ひょっとすると、私の幸せというのはその辺に転がっていて、私がそれに気がついていないだけなのかもしれない。
けれど、私には幸せを見つける“眼”を持ち合わせていない。
私の中にある混沌の中から一つの答えを引き上げるとするなら、『孤独を打ち消し、目に見える幸せを掴むこと』こそが……、今の私の定義だ。
だが、孤独を打ち消せば、私はそこに安住してしまうだろう。
私の中にある混沌は、私にとっての光であり闇だ。
無限の可能性を秘め、私に筆を取らせて「ものをかけ!」とかき立てるのだ。
私は幸せになってしまうと、この混沌を失ってしまうような気がしてならない。
だから、時々思うのだ。
『この混沌を抱え、あるいは、この混沌の中で生きていくことこそが、私の幸いなのではないか……?』と。
私は孤独を振り切ったことがないから、この考えを証明することは出来ない。
そして、孤独を振り切れるとも思っていない。
何故なら、孤独は私の始まりで、孤独は私を辿るルーツだからだ。
あの黒くて身を凍えさせるような冷たい感情が、気持ちが、私の延髄に深く染みこんで抜けそうにないからだ。
それに……。
私も手放そうとは思っていない。
そう思わずには、いられないのだ。
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